
フィジカリストOuJi 劔術アカデミー2027
分からない事も、
できない事も、道場へ。
どこが分からないのか。何をしようとして、どうなったのか。
そこを一緒に確かめ、共に研究し、稽古を重ねていきましょう。
会場は、Facebookグループページにて毎回連絡します。
受講についてのお問い合わせ

劔術アカデミーでは、技を成立させる身躰の働きを「術理」として明らかにし、稽古の初めから傳えます。一骨ごとの動き、左右側躰の関係、太刀と身躰の関わりを學び、自らの身躰で確かめていく。その積み重ねによって、理解した術理を、実際に使える技へと育てます。
古傳武術に學び、身躰構造學の観点からその理を紐解く、フィジカリストOuJiの劔術アカデミー。ここで何を學び、どのように稽古するのかをお傳えします。
新傳武術・躰流(みのもとりゅう)は、フィジカリストOuJiが令和二年に創始した武術です。
技を成立させる身躰操術を、稽古の初めから具体的に傳えます。
骨の動き、骨と骨との関係、左右側躰の働きを詳しく學びます。
説明を讀み、動きを見直し、自らの身躰で試して理解を深めます。

劔術アカデミーの教え方

ここで云う答えとは、その技を成立させている身躰操術(術理)の事です。どの骨をどう動かし、それが他の骨とどう関わって、太刀の働きに繋がるのか。そこを、できるだけ具体的に説明します。
ただ、答えを聴いて、すぐにできるかというと、これがなかなかできない。頭では分かっていても、自分の身躰がその通りに動かない事があります。
何ができないのかが見えた時には、既に稽古すべきことも見え始めています。動かしたつもりの骨が動いていなかった。左右の関係が崩れていた。そうした事を、一つずつ確かめていきます。
「彷徨うよりは、絶望の方が良い。」
できない事がはっきりし、稽古によって少しでも動きが変わる。「これは変えられるんだ」と分かるところから、次の稽古が始まります。


道場で學ぶこと
道具の形や長さ、重さが変われば、身躰との関係も変わる。それぞれの武術を通じて、身躰の働きを多方面から學びます。
刀が鞘に納まった状態から始める。抜く前の身の在り方から、刀と鞘、左右の手、身躰の関係を學びます。
抜いた刀を構えた状態から、劔位と身躰の働きを學ぶ。相手との間合いや位置関係の中で、その働きを確かめます。
杖の長さや重さ、形を通じて、扱う身躰を知る。太刀との共通点と違いを、稽古の中で調べていきます。
合気・柔術・拳術・蹴術などを學ぶと共に、それらの技を行う身躰そのものの開發に取り組みます。
左右の手でそれぞれ太刀を扱う。一本を両手で扱う時には気づきにくかった、左右側躰の関係を確かめます。
互身術で身躰の働きを學び、居合や杖の稽古で確かめ、再び身躰の動きへ還る。その往復を通じて、理解した働きを技の中で行えるようにしていきます。
……
(※ごく一部)


フィジカリストOuJi 特別対談
なぜ術理を最初から傳えるのか。形・術・技・構を、どう區別して學ぶのか。新傳武術・躰流を創始した経緯から、五本柱の稽古、武蔵研究、これから學ぶ方への言葉まで、王子自身の言葉で語ります。
はい。うちは、いきなり答えを教えます(笑)。
ここで云う答えとは、その技を成立させている身躰操術(術理)の事です。どの骨をどう動かし、それが他の骨とどう関わって、太刀の働きに繋がるのか。そこを、できるだけ具体的に説明します。
術理が分かると、自分が何を稽古しているのかが分かります。上手くいかなかった時にも、どの動きを確かめればよいのか、稽古の中で問いを立てられるようになります。
ただ、答えを聴いて、すぐにできるかというと、これがなかなかできないんですよ。
そうです。頭では分かる。何をしようとしているのかも分かる。でも、自分の身躰がその通りに動かない。その難しさに、絶望する事もあります(笑)。
道場でも、こんな言葉が出ました。
「彷徨うよりは、絶望の方が良い。」
少し強い言い方ですが、何ができないのかが見えた時には、既に稽古すべきことも見え始めています。動かしたつもりの骨が動いていなかった。左右の関係が崩れていた。太刀を動かそうとして、身躰の働きを止めていた。そうした事を、一つずつ確かめられる。
できない事がはっきりするのは、楽な事ではありません。でも、そこから稽古を重ねて、少しでも動きが変われば、「これは変えられるんだ」と分かります。僕が、絶望は希望に変わると言うのは、そういう意味です。
自分が何をしているのかを、學ぶ人に傳えたいからです。
教える側が感じていることを言葉にしても、受け取る人が同じように動けるとは限りません。「こういう感じ」と言われた時、その感じを生んでいる身躰の働きは何なのか。そこまで掘り下げて説明する必要があります。
どの骨が、どちらへ、どのように動いているのか。ほかの骨とはどう関わっているのか。そうした、身躰に実際に起きている事を説明するのが、僕の重視している「物理的身躰に於ける言語化」です。「抜ける」「通る」といった言葉を使う時にも、そこで何が起きているかを具体的に示したいんです。
そして、説明する順序も大切です。ある動きが分からない時には、その前に確かめておくべき動きがあるかもしれない。どこから學べば理解できるのかを考えて、稽古の順序を組み立てます。
技の全体を示す事と、その技を學べるように稽古を組み立てる事には、それぞれ仕事があります。僕は、その両方に取り組みたいと思っています。言葉を聴いた人が、確かめる箇所と動きを特定できる。実際に行った時には、説明と自分の動きを照らし合わせられる。そこまで傳える事を目指しています。
形や技の名前、教えの言葉が傳わっていても、その中で身躰が何をしているのかが分からなくなる。その問題です。
ある言葉を先生も生徒も使っている。でも、その言葉を聴いて実際に行っている事が、それぞれ違うかもしれません。言葉が共通しているだけでは、動きまで共通しているとは限らないわけです。
傳わってきた形を學ぶ事と、その形を成立させる術を理解する事には、それぞれ確かめるべき内容があります。僕自身が教える時にも、説明したというだけで、相手に傳わったと思い込まないようにしたい。
學ぶ人が何を行おうとして、実際に何が起きたのか。そこを見る事で、僕の説明に足りなかったところも分かります。言語化は、教えた後も続けていく仕事です。
はい。口傳・書傳・写傳・映傳の「四傳法」を大切にしています。口頭の説明、文章、図や写真、映像。それぞれで確かめられることが違います。
文章では、説明の順序や、一つひとつの言葉を読み返せます。図や写真では、劔や身躰各部の位置関係を確かめられる。映像では、動きの過程を見直せます。道場で聴いた言葉を読み返し、動きを見直し、また身躰で試す。そうして理解と実技を深めていきます。
傳書にまとめる事は、僕自身にとっても、自分の説明を確かめる仕事です。言葉にしようとすると、曖昧なままにしていたところが見えてきます。何をどう行っているのかを明確にする事が、教える内容をさらに研究する事にもつながります。
新傳武術・躰流は、僕が令和二年に創始した武術です。「躰流」と書いて、「みのもとりゅう」と読みます。
創始の年代も、僕が創ったという事も、最初から明らかにしています。古傳武術に學び、その技法と術理を研究し、身躰構造學の観点から、操術や稽古の方法を組み立てています。その立場を表すのが「新傳」です。
古傳を紐解き、新しきを創り、新たに傳える。研究して分かった事を、どのように次の人へ傳えるのかという課題まで、この名称に含めています。自分ができるようになった技について、學ぶ人が何を稽古すればよいのかを明らかにする。理解できる言葉と、実際に取り組める稽古の方法にするところまでを、自分の仕事として考えています。
僕が大切にしているのは、「古を尊び、古を偽らず」という事です。
先人が遺して下さった技や言葉から、何を學んだのか。自分で何を研究し、何を組み立てたのか。その経緯を明らかにして、自らの言葉と実技で示していきたいと思っています。古傳に記されている教えと、僕自身の研究によって得た解釈や説明との関係も、きちんと示します。
形にも言葉にも、自分がまだ理解できていない事があります。その意味を、稽古しながら確かめる必要がある。そして、新しく創ったものには、創った者の責任があります。
何を根拠にそのように考えたのか。実際には何をしているのか。それを、自分の言葉と実技で示す。その姿勢を、「新傳」という名称にも込めています。
身の本源、という意味です。
人間の身躰は、元々どのような構造を持ち、どのように動く事ができるのか。稽古では、そこに立ち返ります。一骨ごとの動き、骨と骨との関係、重力のもとで生じる連繫を確かめ、互動法をはじめとする身躰操術を通じて、劔術・拳術・居合術などの攻防に働かせていきます。
たとえば、手を動かすと言っても、手だけを見ていては分からない事があります。上腕骨や肩胛骨、鎖骨はどう動いているのか。肋骨や脊椎とはどう関わっているのか。一つの動作として行っている事を、一骨ごとの働きと、それらの関係から確かめていきます。
普段、何気なくできている動きにも、使えていない働きがあるかもしれません。逆に、自分では動かしているつもりでも、実際には別のところを動かしている事もある。そうした事を明らかにして、身躰が備えている運動の可能性を探究する。それが、身の本源に立ち返るという事です。
僕たちは、生まれた時から、この身躰を持っています。でも、その構造を自分で考えて作ったわけではありません。骨があり、関節があり、筋肉があり、それぞれが関わり合って動く身躰を、受け継いでいるわけです。
この身躰の歴史は、僕個人の人生よりも、武術の流派の歴史よりも、ずっと古い。先人も、その身躰を用いて武術を生み出し、稽古してきました。
僕が「身躰そのものが古傳である」と言う時には、人から人へ傳えられた武術の教えに加えて、その教えを生み出すもとになった身躰にも目を向けています。古傳を學ぶ自分の身にも、すでに受け継がれているものがある。それがどのような構造で、どのように働くのかを知る事も、古を學ぶ事だと考えています。
武術を稽古すると、自分の身躰について、具体的な問いが生まれます。決められた形を取ろうとしても取れない。太刀を動かす時に、途中で動きが止まる。相手との関係が変わると、それまでできていた事ができなくなる。そこで、自分は何をしているのかを調べる必要が出てきます。
一骨ごとの動きや、その関係を確かめてから、もう一度その形や技に取り組む。すると、先ほど何ができていなかったのかが見えてくる。身躰についての理解が、武術の稽古に返ってくるわけです。
そして、技を稽古する中で、また次の問いが生まれる。身躰の研究と武術の稽古を、このように行き来しています。僕が「身躰が解れば武術が解り、武術が解れば身躰が解る」と言うのは、その関係を表しています。
太刀や木劔、杖を扱う事も、身躰を知る手掛かりになります。道具の重さや長さ、形が変われば、扱う身躰にも違う働きが求められます。道具を通じて身躰を學び、身躰を通じて道具の扱いを學ぶ。その往復も、稽古の大切な部分です。
はい。躰流を創始し、教えているのは僕です。そして、僕自身が學び続けている相手が、太刀であり、木劔であり、杖であり、身躰そのものです。
太刀には太刀の形や重さがあり、身躰には身躰の構造があります。僕がこう動かしたいと思っても、その思いだけで自由になるものではありません。実際に扱った時に何が起きているのかを見て、自分の扱い方を確かめる必要があります。
僕の説明も、學ぶ人が自分の身躰や道具を通じて確かめられるものでありたい。教えた言葉によって、何を見るべきか、何を動かすべきかが明確になる。そのうえで、実際に試して理解を深めてもらう。「身躰そのものが師である」という考えは、教え方にも関わっています。
抜刀術・劔術・杖術・躰術・二刀劔術の五本柱です。
躰術には、合気・柔術・拳術・蹴術などが含まれます。そして、それらの技を行う身躰そのものを、どのように開發していくのかという課題もあります。
太刀を一本持つのか、二本持つのか。杖を扱うのか。道具を持たずに行うのか。それぞれに學ぶべき事があります。道具の形や長さ、重さが違えば、身躰との関係も変わりますから、個々の扱いを丁寧に稽古する必要があります。
そのうえで、どの稽古にも、身躰が何をしているのかという問いがあります。この五つを通じて、身躰の働きを多方面から學んでいきます。
関わってきます。ただ、太刀でできた事が、そのまま杖でもできるとは限りません。扱うものが変わった時に、何が共通していて、何を変える必要があるのか。そこを調べる事に意味があります。
一本の太刀を両手で扱っている時には、気づかなかった左右の関係があるかもしれません。それぞれの手で太刀を持つと、片側で何をしていたのかが、改めて課題になる。道具を替える事によって、自分の動きの見え方も変わってきます。
ある稽古で分かった事を、ほかの稽古に持ち込んで確かめる。その結果、最初の稽古で理解したつもりだった事を、考え直す場合もあります。そうした行き来を通じて、使える身躰の働きを増やしていきたいんです。
五十四劔形は、躰流の劔術を學ぶための体系の一つです。その一つひとつについて、「この形は、何故、このカタチになったのか?」を問います。
劔先はどちらを向くのか。柄はどこにあるのか。左右の手と腕はどのように配置されるのか。身躰はどうなっているのか。それらを定めておくと、自分の都合のよい動きで済ませていたところが見えてきます。
その条件を満たすには、どのような身躰の働きが必要なのか。そこを稽古する事で、自分が普段は使えていなかった動きを探究できます。形を細かく學ぶ事は、身躰を細かく知る事にもつながるんです。
「極意は身の内にあり」と言っても、何もしなくても分かるという事ではありません。形を稽古し、その形を成立させている働きを確かめる事によって、身の内にあるものを明らかにしていきます。
一つの形にも、成立させるために學ぶ事と、その形から展開できる事があります。相手との関係が変われば、用い方も変わる。そのため、形の数を覚え終えたところからも、まだ稽古は続きます。五十四という数で學ぶ内容を整理し、それぞれの形の中を、どこまで詳しく學べるかを大切にしています。
外から見える位置や向きが似ていても、その位置に至るまでに何をしたのか、そこで身躰がどう働いているのかは、違う場合があります。
先生の手がこの位置にあるから、自分の手もそこへ持っていく。それで外形が近づく事はあります。ただ、その時に先生が上腕骨や肩胛骨、鎖骨をどう用いているかまでは、手の位置だけでは分かりません。
さらに、その形から動き始めた時に、違いが出る事もあります。見た目は整っていたのに、太刀を動かすために、身躰を組み直さなければならない。そこで、形を取っていた時から何が足りなかったのかを確かめます。
僕は、その違いを「何かが違う」で終わらせずに、どの働きが違うのかまで説明したいんです。
形は、劔や身躰各部の位置、向き、配置などによって定まるものです。術は、その形を成し、働かせる身躰の運用です。
『形術百法記』には、「形ハ術ノ器。術ハ形ノ命。」と記しています。
器としての形を定める事で、そこで學ぶべき術が明らかになる。そして、その形に必要な身躰の働きが備わる事で、形が働くようになる。その関係を表しています。
外から静止して見える形にも、身躰の働きがあります。手の位置を保っている時に、腕と身躰がどう関わっているのか。左右はどうなっているのか。動いていないように見える時も、術について確かめる事があるんです。
はい。突く、斬る、受ける、投げるといった、具体的な働きとして現れるものを「技」として捉えています。その技を成立させる身躰の運用が「術」です。
斬るという技を見た時に、太刀がどこからどこへ動いたかは見えます。そこから更に、その動きを生んだ身躰が何を行っているのかを調べる。それが、術を學ぶ事につながります。
同じ「斬る」という言葉で表される技にも、異なる身躰の用い方があります。また、一つの身躰操術が、斬りにも受けにも働く場合がある。技の名前と、それを成立させる術とは、分けて確かめる必要があります。
「技は術の花、術は技の根」という言葉も、その関係を表しています。
躰流では、「形×術=構」と表しています。
外形としての形に、その形を成立させ、働かせる術が伴っている。それを「構」として捉えています。構えを學ぶ時には、どこに劔を置くかと共に、そこで身躰をどう用いているかを學びます。
上段であれば、太刀が頭上にあれば、それで學び終わりという事にはなりません。そこから働ける身躰になっているのか。次の動きに移る際に、何を行っているのか。その形が働くところまで、確かめていく必要があります。
掛け算で表しているのは、形と術を一緒に學ぶ事を示すためです。配置を整える稽古と、身躰の働きを確かめる稽古を、結びつけて行います。
劔形を記す『五十四劔形録』では、「基本形・術理・用法・変幻術」の四門を設けています。
基本形では、劔先や柄、手、腕、身躰の位置と向きを定めます。その劔形が、どのような形なのかを明らかにするためです。
術理では、その形が、どのような身躰の働きによって成るのかを扱います。脊椎、肋骨、肩胛骨、鎖骨、上腕骨、手骨など、一骨ごとの動きと、それらの関係を見ていきます。
用法では、相手の劔位や攻撃方向、間合いなどに応じて、その形を受け、斬り、返し、逸らしとして、どう働かせるのかを學びます。
変幻術では、条件が変わった時に、その形から何が生まれるのかを扱います。接触する位置や方向が変われば、働きも変わる。そこから別の術技や、ほかの劔形へと転じることもあります。
この四つを区分しておくと、今、何を學んでいるのかが明確になります。形は合っているのか。その形を生む身躰の働きはあるのか。相手との関係の中で使えるのか。それぞれを確かめながら、稽古を進められます。
役立ちます。「形を覚えた」という一言の中にも、理解できている事と、まだ分かっていない事があります。それを具体的に確かめられるようにしたいんです。
基本形として位置や向きが合っていても、その形を成す身躰操術が十分に行えているとは限りません。また、その形を取る事ができても、相手に対して用いる段階で、課題が出てくる事もあります。
相手との間合いの問題なのか。そもそも、その形を成立させる働きができていないのか。原因によって、取り組む稽古は変わります。どこへ戻って確かめるのかを考える時にも、四門の区分が役立ちます。
躰流では、刀が鞘に納まった状態から始めるものを抜刀術、抜いた刀を構えた状態から始めるものを劔術とし、その両者を合わせて居合術と捉えています。
始まりの条件が違えば、學ぶべき事も変わります。鞘に納まっている刀を扱う時には、刀と鞘、左右の手、それを扱う身躰の関係があります。すでに抜かれた刀を扱う時には、その状態での劔位や相手との関係を學びます。
どちらも、身躰と太刀の働きを、攻防の中で確かめていく稽古です。躰流では、この関係を踏まえて、それぞれの操術を整理しています。
はい。刀がまだ鞘の中にある時、自分の身躰はどうなっているのか。そこから、すでに稽古する事があります。
抜こうとした瞬間に肩を固めるのか。身躰の位置を変えてからでなければ始められないのか。自分では刀を抜く一つの動作だと思っていても、その前にいくつかの動きを挟んでいる場合があります。
その一つひとつを見ていくと、刀が動き始める前から、扱いに影響していた事が分かってきます。
抜く前の身の在り方から、抜き、働かせるところまでを通して學ぶ。抜き終わった形だけを見ていると捉えにくい事が、その過程にあるんです。
そうです。一つの技を行うまでに、どのような行程があるのかを調べます。
構え直して、動き始めて、それから太刀が働く。そうした段階を一つずつ速く行っても、段階そのものが減るわけではありません。途中で行っている事が本当に必要なのか、身躰の運用を変える事によって、別々になっていた働きが一緒に行えるのかを確かめます。
ここでいう一拍子は、一か所だけを動かすという意味ではありません。複数の骨や左右の身躰が関わりながら、一つの働きとして成り立つ。そのための操術を學びます。
速く動こうとする前に、自分の動作が何段階になっているのかを知る。それだけでも、稽古の課題が変わってきます。
技に入る前の起こりや予備動作、予備緊張に、より詳しく目を向けます。
本人は何もしていないつもりでも、始める前に身構えたり、力を入れ直したりしている事があります。その動きが相手との関係の中で、どのように現れているのかも確かめます。
無拍子を學ぶ時にも、何をどう行うかという具体的な稽古があります。自分の動作のどこに区切りがあり、どこで次の動きのために準備しているのか。その準備を必要としている身躰の用い方まで調べていきます。
「もっと速く」という指示だけでは、確かめる箇所が定まりません。僕は、その箇所と働きを示したうえで、動作がどう変わるのかを一緒に見ていきたいんです。
あります。初めから全体を一度に行おうとすると、どこで何が起きたのか、自分でも分からなくなる事があります。
まず、一つの働きを取り出して確かめる。分かってきたら、ほかの働きと結びつけ、技の中で行ってみる。その時に、分けて稽古した動きが、全体の中でも行えているかを見ます。
ゆっくりならできるのに、続けて行うと消えてしまう働きもあります。そこで、どの段階からできなくなったのかを確かめる。その順序を用意する事も、教える側の仕事です。
動きを分けて學ぶ段階と、それらを一つの働きにしていく段階とがあります。今は何を理解するための稽古なのかを、はっきりさせて進めます。
はい。互身術は「ごしんじゅつ」、あるいは「たがいみのすべ」「たがいみのわざ」と読みます。
抜刀や居合などの技に働いている身躰の原理を取り出し、身躰開發の方法として組み立てたものです。技の中では捉えにくかった働きを、身躰の動きとして詳しく學ぶための稽古になります。
太刀を扱っていると、どうしても太刀がどこへ動いたかに意識が向きます。その時に、自分の身躰がどう動いていたのかを、改めて確かめる必要がある。互身術で學んだ働きを、もう一度、太刀を扱う中で試していきます。
身躰各部が、互いに関わって働いている事を表しています。僕は、その関係を「縁起的身躰」とも呼んでいます。
一つの骨を動かそうとする時にも、隣り合う骨や、ほかの部位がどうなっているかが関わります。腕の動きを確かめていたはずが、肋骨や脊椎との関係を調べる必要が出てくる。左右の片側を學んでいる時にも、もう片側が何をしているかを見ます。
一骨ごとの働きを明らかにする事と、骨と骨との関係を學ぶ事は、つながっています。その骨だけを見れば分かったつもりでも、ほかとの関わりの中で、改めて分かる事がある。
「お互い様」で働いている身躰を、実際の運動を通じて學ぶ。その考えを、互身という名に込めています。
両方を行き来します。
互身術で身躰の働きを學び、それを居合術で確かめる。太刀を扱った事で分からなくなったところがあれば、互身術に戻って調べる。そこで得た理解を持って、再び居合を稽古します。
この関係を大切にしたものが、互身居合術です。互身術と居合術が、稽古の中で車の両輪として働く。互身杖術にも、同じ考えがあります。
道具を持つ前にはできていた動きが、持つとできなくなる事があります。それは、道具を持った時に、自分が何を変えたのかを知る機会でもあります。持たずに學んだ働きが、持った時にも生きるように、両方から確かめていくんです。
つながります。道場を出た後も、同じ身躰で立ち、歩き、座り、物を持っていますから。
稽古である動きに気づくと、普段の動作の中でも、そこがどうなっているのかを見られるようになります。物を持ち上げる時に、どこを先に固めているのか。向きを変える時に、左右をどう使っているのか。何気なく行っていた事に、確かめる箇所が生まれます。
その気づきを、次の道場の稽古に持ってくる事もできます。日常で見つけた癖が、太刀を扱う時にも出ていた、と分かるかもしれません。
武術を行う時だけ身躰を作り直す必要がなくなるように、日常の身の在り方から學ぶ。その方向も、稽古の中で大切にしています。
躰流では、「古傳創新、還源深化」と言っています。
古傳を研究する中で、新しい操術や稽古法が生まれる。それを実際に稽古してみると、今まで読み取れなかった古傳の言葉や技の意味が、分かる事があります。
新しく得た理解を持って、もう一度、古傳に還る。すると、更に深く學べる。その研究と稽古を重ねながら、得られた知見を技法と傳書にまとめていきます。
読み直す言葉は同じでも、それを読む自分の理解や、実際に行える動きが変わっている。だから、以前とは違うところまで確かめられる。円環であり、螺旋であると話してきたのは、そのためです。
古を學んで今の稽古に照らし、そこで得た理解をもって再び古を學ぶ。この関係を、「稽古照今」という言葉でも表しています。なぜ、その位置なのか。なぜ、その順序なのか。前には気にも留めなかったところが、新たな稽古の課題として見えてくる事があります。
新しく創るものには、操術そのものに加えて、それを學ぶための稽古法や、傳える言葉、學ぶ順序も含まれます。先人の教えを研究して得た理解を、次に學ぶ人が自ら確かめられる方法にする。そのための創意も必要なんです。
古傳の技や教えの中には、身躰と道具の構造、そして実際の攻防に関わる理が含まれていると考えているからです。
ある技が成り立つ時には、身躰と太刀がどのような関係にあるのか。相手との位置や接触する箇所が変わると、何が変わるのか。そうした事を、実際に稽古して確かめ、説明できるようにしていきたいんです。
古傳に示された形や言葉を手掛かりに、その技が成立する条件を調べる。自分の説明が、実際に起きている事を捉えているかも確かめる。僕が「古傳こそ科学」と言う時には、古傳を、そのように研究して學ぶものとして捉えています。
はい。人がある技を行えなくなった時、その技を成立させていた身躰の働きまで、この世から消えてしまったのか。僕は、そこを問い直したいんです。
形や技の名前が残っていても、どのような身躰操術によって成り立っていたのかが分からなければ、次の人は何を稽古すべきか分からなくなります。見ていた人には分かると思われていた事も、後から學ぶ人には手掛かりが足りないかもしれません。
だから、できる人がいる時に、その人が何をしているのかを明らかにしておきたい。外から見える形だけでなく、成立に関わる働きや、うまくいかない時に確かめるべき事まで言葉にして遺す。それが、僕が言語化を重視する理由です。
はい。今年は、宮本武蔵の『五輪書』を、身躰構造學(身理學)から解説する書籍を執筆しています。
『宮本武蔵「五輪書」身躰構造解説』、そして『武蔵の顔』『武蔵の脊椎』『武蔵の足』の四冊です。
武蔵の言葉が、実際の身躰のどのような働きに関わっているのか。そこを明らかにしたいんです。言葉の意味を理解しようとすると、身躰について調べ、稽古する必要が出てきます。そして、身躰の働きが分かると、それまで読んでいた言葉を、改めて考え直す事になる。
その過程で得た知見を、今回の書籍にまとめています。『五輪書』全体を身躰構造學から解説する書籍に加えて、顔、脊椎、足についても、それぞれ一冊として書いています。「古傳創新、還源深化」を、具体的な研究として進めているものの一つです。
あります。この一節についても、僕の研究から得た身躰構造學の新説を、今回の書籍で解説します。
「つま先を少うけて、きびすを強く踏むべし」。
この言葉を、身躰構造學(身理學)から、どのように読み解くのか。武蔵の言葉と、実際に稽古する身躰との関係を考えるうえで、取り上げたい一節です。具体的な解説は、本書でお傳えします。
はい。『達人の沈黙』という書籍です。浮身・沈身、無足など、代表的な武術極意を言語化しています。
こうした言葉を知っていても、実際に何を行えばよいのかが分からなければ、稽古には取り組みにくい。その言葉が指している身躰の働きは何なのか。何をどう用いる事によって、その術が成り立つのか。そこを、學ぶ人が理解できる言葉で示したいと考えています。
武蔵の教えを読み解く研究も、武術の極意を言語化する仕事も、學ぶ人が自ら確かめられるように傳えるという点で、つながっています。
はい。『宮本武蔵「五輪書」身躰構造解説』『武蔵の顔』『武蔵の脊椎』『武蔵の足』、そして『達人の沈黙』。この五冊は、すべて2027年の劔術アカデミー参加者への無料特典です。
いま取り組んでいる研究を、書籍という形でも参加者の皆さんにお傳えします。道場での実技と併せて讀み、ご自身の稽古を深めるために役立てていただきたいと思っています。
讀んで気になった言葉や、分からなかったところを、ご自身の稽古に持ってきてほしいですね。
文章で説明されている事を、実際に行おうとすると、自分はどこまで分かっていたのかが見えてきます。頭では理解したつもりでも、身躰で行う段階になると、改めて確かめる必要がある。そこで生まれた問いを、道場で一緒に考えたいと思っています。
稽古した後に読み直すと、前には気づかなかったところが気になる事もあります。書籍を讀み、身躰で確かめ、また書籍に還る。その往復の中で、言葉と実技の両方を深めていただきたいんです。
僕は、刀が鞘に納まっている姿に、「我、斬らず」という姿勢を読み取っています。
刀を扱う術を學ぶ中で、抜く前にどう在るかを考える。相手の働きに応じるために、どのような備えが必要なのかを考える。その課題は、居合の稽古にもあります。
片刃である事、鞘に納めて携えるものである事。僕は、日本刀のそうした形にも、何を學び取れるかを問い続けています。それをどのような武術の姿勢として受け止めるのかも、自分の研究と実践に関わる事です。
術を學び、扱えるようになるほど、どう用いるかを考える責任もあります。身躰と道具の働きを詳しく知る事と、その扱いを慎重にする事を、一緒に學んでいきたいと思っています。
はい。道場で出た疑問や、参加者の動きから気づかされる事もあります。それを次の説明や稽古に反映していく事を、大切にしています。
流儀に名前を付け、体系を立てた後にも、確かめるべき事はあります。學ぶ人の問いや動きから、説明が十分ではなかったところに気づく事もある。自分で稽古していて、新たに分かる事もあります。
そこで得た理解を、操術や稽古法、傳える言葉に反映し、さらに古傳を學び直す。何を傳えるのかを明確にしながら、研究によって理解を深めていく事も、創始した者の役割だと思っています。
太刀を扱いながら、身躰に問いが生まれ、その問いを確かめた事が、次の太刀の扱いにつながっていく。「躰に始まり、躰に還る」。新傳武術・躰流は、その稽古を共に重ねていくための流儀です。
達人が行っている事を、何がどう働いて成り立っているのかまで明らかにして、學べる形で傳えたいんです。
見事な技に出会えば、「すごい」と思います。その先で、どうすれば自分も學べるのかを知りたい。その為に、極意や秘傳と呼ばれてきたものを、理解し、體現に向けて稽古できる言葉と方法にしていきたいと思っています。
理解してから、実際にできるようになるまでには、稽古が要ります。だからこそ、何を積み重ねればよいのかを、きちんと傳えたい。
技を目にした人が、その技を學ぶために何をすればよいのかを知り、自分で稽古できるようにする。そのために、僕自身が研究を続けます。
「万人達人の世を創る」。それが、躰流を創始した志です。
分からない事や、できない事を、稽古の場に持ってきて下さい。どこが分からないのか、何をしようとして、どうなったのか。そこを一緒に確かめたいと思っています。
「できませんでした」と言う時にも、形が取れなかったのか。形は取れたけれど、そこから動けなかったのか。相手との関係が変わった時にできなくなったのか。それによって、一緒に確かめる内容が変わります。
最初から、それを全部説明できる必要はありません。どこが分からないのかを、一緒に探すところから稽古できます。説明を聴いて行ってみた時に何が起きたかを、遠慮なく持ってきてほしいんです。學ぶ人の動きを見て、僕も説明や稽古の順序を考えます。
術理を知ると、自分の身躰を、今までとは違う目で見られるようになります。何となく動かしていたところに問いが生まれて、一つの動きを何度も試したくなる。難しさもありますが、その中で発見する面白さを、皆さんと共有したいですね。
2027年も、道場で共に研究し、稽古を重ねていきましょう。

2027年 劔術アカデミー参加者無料特典
特典電子書籍のご紹介
宮本武蔵の『五輪書』を身躰構造學(身理學)から解説する四冊と、代表的な武術極意を言語化する『達人の沈黙』。現在執筆中の五冊を、すべて2027年参加者への無料特典としてお渡しします。

『五輪書』の言葉を、身躰構造學(身理學)の観点から読み解く。

顔についての研究を、一冊の書籍としてまとめる。

脊椎の働きから、武蔵の言葉と身躰との関係を考える。

武蔵の足運びをめぐる、身躰構造學の新説を解説する。

浮身・沈身、無足など、代表的な武術極意を言語化。何をどう用いる事によって、その術が成り立つのかを明らかにする。
「つま先を少うけて、
きびすを強く踏むべし」
この一節を、身躰構造學からどのように読み解くのか。具体的な解説は、書籍でお傳えします。

新傳武術・躰流 創始者
河上雄太
令和二年に新傳武術・躰流を創始。古傳武術に學び、その技法と術理を身躰構造學の観点から研究し、操術や稽古の方法を組み立てています。
「古傳創新、還源深化」。古傳の研究から新たな操術や稽古法を創り、その実践で得た理解を携えて、再び古傳に還る。研究と稽古の積み重ねを、技法と傳書にまとめています。
「万人達人の世を創る」。
それが、躰流を創始した志です。


京都道場・東京道場
劔術アカデミーと、姉妹講座・活法アカデミーの年間日程です。
※日程・時間は変更になる場合があります。
会場について
会場は、Facebookグループページにて毎回連絡します。
劔術アカデミーの姉妹講座
2027年も、劔術アカデミーの姉妹講座として、フィジカリストOuJi活法アカデミーを開催します。京都道場・東京道場の開催日程を、上記に掲載しています。
活法アカデミーの紹介を読むはい、未経験の方も安心してご参加下さい。
当流道場では、参加者の7〜8割が武術未経験から學び始めています。武術経験のある方も、共に稽古しています。
どの骨をどう動かし、それが技にどう関わるのか。稽古の初めから、身躰の使い方を具体的にお傳えします。
はい、オンライン参加でも學んで頂けます。オンラインのみで學んでいる道場生も多くいます。
躰流では、どの骨を、どちらへ、どのように動かすのかを、「物理身躰言語」で具体的に解説します。更に、詳細な文書や図解も用いて、動きと説明を照らし合わせられるようにしています。
大切なのは、説明を聴きながら実際に身躰を動かし、自分で確かめる事です。その稽古に取り組む姿勢を持って、どうぞご参加下さい。
全く必要ありません。
稽古を通じて、具体的にどこの骨をどのようにしたら関節がどう動くかを、身躰構造學の見地からこれでもかと言うほど繰り返し分かりやすく解説しています。
はい。これまでの稽古で身につけてきた動きを、身躰構造から詳しく確かめて頂けます。
実際頂く声ですが、今まで謎だった事が一気に紐解けたという方も多いです。
普段できている技でも、どの骨がどう働いているかを説明しようとすると、まだ明確になっていないところが見つかる事もあります。
ご自身の経験と照らし合わせながら、動きの共通点や違い、その技が成り立つ条件を探って頂きたいと思います。
抜刀術・劔術・杖術・躰術・二刀劔術を五本柱として學びます。
主な稽古には、互身劔術、互身居合術、互身杖術、互身術があり、基本操劔録、素振操劔録、五十四劔形録、二刀劔術録〈互刀流雙龍劔〉などを扱います。
刀や杖の扱い方と、それを扱う自分自身の身躰の働きを、結びつけながら稽古していきます。具体的な技名は、ページ内の「主な稽古内容」をご覧下さい。
説明を理解することと、実際に自分の身躰で行えることの間には、稽古が必要です。
躰流では、技を成立させる身躰操術を、稽古の初めからお傳えします。その上で、説明と自分の動きを照らし合わせ、できているところと、まだできていないところを確かめます。
何ができないのかが分かれば、次に稽古することも具体的になります。その積み重ねによって、理解した術理を、自らの身躰で體現することを目指します。
申込みがあった方に、鞘(さや)付きの木刀(5,500円〜7,000円)、杖(5,000円〜)などの購入先(Amazonや他のサイト)をご紹介しますので、そちらからご購入下さい。
學んだ動きの中から、確かめる箇所を一つ選び、繰り返し観察してみて下さい。
例えば、説明された骨を動かしているつもりでも、隣の構造まで一緒に動かしていることがあります。動きを小さく、ゆっくり行うことで、その違いに気づくこともあります。
何が分かり、どこが分からなかったのか。その問いを持って次の稽古に臨むことで、學びを深めていきましょう。
はい。活法アカデミーは、劔術アカデミー受講者を対象とした姉妹講座です。
「武醫同源」の理に基づき、人に施す活法技術と、その技を施す自分自身の身躰の使い方を學びます。劔術で學んだ身のこなしを活法で確かめ、活法で得た気づきを劔術の稽古にも持ち帰っていきます。
尚、活法アカデミーのみの単独受講はできません。併せて受講をご希望の方は、申込みフォームをご確認下さい。
京都道場・東京道場で開催します。
年間の開催日程と時間は、このページの「開催日程」に掲載しています。詳しい会場は、Facebookグループページにて毎回ご案内します。
受講料とお支払い方法は、申込みフォーム内に記載しています。
このページの「受講料を確認して申し込む」からフォームを開き、内容をご確認の上、お申込み下さい。受講について確認したいことがある方は、お問い合わせ窓口をご利用下さい。

フィジカリストOuJi 劔術アカデミー2027
どこが分からないのか。何をしようとして、どうなったのか。
そこを一緒に確かめ、共に研究し、稽古を重ねていきましょう。
会場は、Facebookグループページにて毎回連絡します。
受講についてのお問い合わせ